文章を書くとは、自分の心を探っていくこと

こうして文章を毎日書いていて改めておもしろいなーと思うことがある。それは「文章というのは自分で完全にコントロールできない」ということ。

例えば昨日は、「近藤麻理恵とスティーブ・ジョブズって似ているやん!」ということを書いたのであるが、書き始めた時にはまったくそんなことは考えていなかった。書き始めのきっかけは、「人生がときめく片付けの魔法」という本を読み終わった直後に、ついこの間、読んだ「エッセンシャル思考」という本と書いてあることは同じだなー、と思い至ったことだった。

それ以上の内容は何も考えないまま書き始めて、書いている途中に「そういえばジョブズは、ときめくものがなくて部屋の中に家具が全然なかったみたいな話があったなー」と思い出した。そうしてなんとなく書き進めてみたら前述のようなまとめになった次第である。

こういう自分で想定しなかった事柄が出てくるところが、文章を書くことのとてもおもしろい部分である。文章を書くのが苦手という人はある一定数いると思われるが、こういった制御不能の部分に不安を感じるのではなかろうか。

自分の書き方がおかしいのかもしれないけれど、ブログのような好き勝手書いていいものであっても、ネタと文字数を指定された原稿書きの仕事であっても、原則、文章の構成というのは事前に考えない。最初にこれがきて、次にこれがきて、最終的にこうなる、みたいな起承転結的な見取り図を作ってそれに沿って書くというのは、とても退屈な行為に感じてしまうのだ。

それが不思議なもので、見取り図を作ることなく何度か文章を見直しながら一つの事柄について書いていくと、言葉というのはある一つのゴールに向かって進んでいくものなのである。おそらく、「書くべきもの」というのは誰の頭のなかにもあるのだろう。文章を書くという行為は、遺跡を採掘するようにして、刷毛で丁寧にその「書くべきもの」の輪郭を掘り起こす作業のような気がする。

途中で脇道にそれたとしても、結局はそれが伏線として機能したりもする。むしろ脇道にそれたことで、文章がよりふくよかなものになったりもする。そうしてできあがったものは、運が良ければ全体を通して、ある一つの漠然としたイメージを作り上げてくれる。そのイメージが読み手へ印象づける文章の持つパワーそのものなのである。つまるところ、小手先のテクニックはどうでもいいのだ。最後まで書き切ることが重要なのだ。

ということで、今日も先のことは考えずに書き始めたのであるが、「そうか、文章を書くということは、ひとつのイメージを作り上げる作業なのだな」と最終的に思い当たったところで終わりにします。ではまた明日ー。

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