やりたいのにできないとは何ごとぞ

昨日、書店に行ったら「書きたいのに書けない人のための文章講座」というタイトルの本が目に入った。その時はそんなに深く考えることはなく素通りしたので、中身は1ページも読んでいないのだが、家に帰ってから何だかそのタイトルが頭から離れなくなってしまった。

中身を読まずにタイトルだけから印象を書こうとしているのでフェアなことではないのと思うのだけど、しかし「書きたいのに書けない」なんてことがあり得るのだろうか。素朴な疑問である。

「書きたくないのに書かなければならない」という状況はあり得ると思う。今は企業でブログを出しているところもたくさんある。そのほとんどは社員がローテーションを組んで交代に書いているのだと思う。そういった文章の出だしは大概「営業の◯◯です!」みたいな「この文章を書いているのは誰なのか?」という疑問を払拭することから始まっている。

それで、ブログのように文章を書いて公開する行為に対しては、好きな人もいれば嫌いな人もいる。嫌いの程度も様々あり、中には「文章を書くことが死ぬほど嫌い」という人もいるだろう。でも持ち回りが来るから何でもいいから書かなくてはならない、どうしよう、とそんな状況におちいっている人にとって「書きたくないのに書かなければならない文章講座」という本は有効になると思う。そういう場面は目に浮かぶし、藁をもつかむ思いで本を手に取りそうである。

しかし、「書きたいのに書けない」というのはどういう状況なのだろう。準備にすごく資金が掛かったり、資格を要するものであればわかるけども執筆など紙とペンさえあればできるものである。書きたければ、ただ好きなことを好きなように書けばよいのではなかろうか。

とここまで考えて、しかしである、と思い直した。例えば自分は泳ぐことがまったく得意ではないが、もし「どうしても泳ぐようになりたい」と突然思ったとすれば、「泳ぎたいのに泳げない人のための水泳講座」という本は結構、刺さるタイトルかもしれない。単純に「どうしたら泳げるようになるのだろう」と思いながらその本に手を伸ばしそうである。他にも、「ゴルフをやりたいのにできない人のためのゴルフ講座」とか、「料理をやりたいのにできない人のための料理講座」とか。

そんなことを思いながらAmazonでそのタイトルの本を探してみたら、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という一覧に同じようなタイトルの本がたくさん出てきた。

そしてその中に「書くことについて」というタイトルのスティーブン・キングの本を見つけてしまった。あんなに大量の物語を生産する人にとっての文章論とはどんなものなのだろう。とポチり。Amazon便利。