お酌して回るのが嫌だった

2016-06-07 8:02

快適に生きていくにはどうしたらいいか。

 

誰しもが気持ちよく思い通りな人生を送りたいと願っていると思う。でも、そういった人生を送れない人というのはいる。毎日、仕事をしていても辛かったり満たされなかったりしている人がいる。

 

果たしてそんな人たちは、その人自身に問題があるからそのような人生になってしまうのだろうか。

 

自分の今のところの答えは、「それは選んでいる環境が悪い」というシンプルなものになる。

 

もちろん40代とか50代くらいの人であればすでに自分の性質というのを良く理解しているだろうし、自分が心地良いと感じられる環境を選んで過ごしていると思う。

 

自分がこの文章で想定している年齢層は、10代、20代くらいの人たちである。

 

ともかく、苦手なことはやってはいけない。苦手とする領域に足を踏み入れてはいけない。得意分野を活かせるところに、自分の時間や能力は投入すべきである。

 

すごく単純な話だが、苦手を回避して得意なことだけをやっていれば人生は必ず快適になる。

 

 

苦手なことをやるとどうなるか。うまくできないので自己肯定感が下がる。しかも同じくらいの時間を掛けて、自分の何倍も上手にできる人がいたりする。その人を見ればまた自己肯定感が下がる。

 

仕事が嫌になる。自分が嫌になる。そして自分の人生が嫌になる。まさに負のスパイラルである。

 

ここで自分が若い頃に苦手としていて、自己肯定感を下げる一方だったことは何かと思い出してみる。

 

ともかく自分は、宴会の席でお酌をするというのが苦手だった。思い出してみると、お酌をして回ったという記憶がない。ひょっとして一度もしたことがないかもしれない。

 

お酌をすること自体に抵抗があるのではない。目の前に座っている人のグラスが空になれば、ビールを手にお酒をつぐ。当然のことである。しかしビール瓶片手に一人ひとりのところへ回ってお酌をするというのは本当に嫌いだ。

 

お酌の何が嫌なのか。おそらくそれは、お酌をするという行為が嫌なのではなくて、向き合って全員と少しずつ話さなくてはならないというのが嫌なのだ。自分にとってそれは、結構、苦痛を伴うことなのである。

 

元々、コミュニケーションが得意ではないので、誰かと知り合いすぐに打ち解けて仲良くなるということはない。何回も顔を合わせ言葉を交わすうちに少しずつ距離を縮めていくことが多い。今、親しくしている人のほとんどは、知り合って数年経ってから打ち解けた人ばかりだ。

 

そんな性格なので、お酌をしてよく知らない人と短い間会話を交わすというのが苦痛である。

 

ほんの2、3分くらいの間なのに、ほとんど会話したことのない人と、一体、何を話せばいいのか。ましてやお酌に来たからと、並々グラスに入っているビールを飲んでもらうのも申し訳なく感じる。

 

しかし世の中には、お酌をして回るのがすごく得意な人がいる。宴会ともなれば誰よりも率先してあらゆる席に回り、行く先々で談笑している。そういう人は当然のことながら周りからの「受け」が良くなるし、会社内であれば上司からの評価も高くなる。

 

自分が20代くらいの時は、そういう人を見ることで結構、劣等感を持つことになった。

 

自分はどうしてお酌しようと思えないのだろう、自分は本当にダメな人間だ、などと宴会の度に自己肯定感が下がり続けた。

 

こんな時に、「それはあなたにとって苦手なことなんだから、手を出す必要はない。劣等感を抱かなくてよい。自分が得意なことだけに目を向ければよい」と言ってもらえたらすごく楽になれたと思う。

 

今の自分は、お酌をして回らないということに自信を持っている。なぜなら「自分はそういうことが苦手なのだ。苦手な行動をして自己肯定感を下げるようなことはしない」と理解しているからだ。

 

こういう風に「この物事は自分にとって苦手なものか・得意なものか」と考えながら過ごしていくことは、すごく重要なことだと思う。だから自分は自分が得意としている文章書きを毎日やり続けるし、そのことでたまに対価をもらうこともできている。

 

得意なことなので躓いたり難易度の高いものが来たとしても、それを乗り越えたいという意欲が出てくる。そして乗り越えられれば自己肯定感が上がり、人生が楽しくなる。いいことずくめである。

 

これが、毎日お酌して回る必要のある環境に身を置いたなら、人生が楽しくなるはずがない。生きていること自体が嫌になるだろう。

 

大事なことなのでもう一度書こうと思う。すごく単純な話だが、苦手を回避して自分の得意なことだけやっていけば人生は快適になります。

 


Category:生活

tags:



«
»