「才能がある」とはどういうことか

やりたいことがあってそれに時間もお金も投入しているのに、思ったように実力が伸びない。周りの評価も芳しくない。こんな時に人は、「自分はこの分野が得意ではない」とはあまり考えない。「才能がないのではないか」と考える。

「才能」とは残酷な言葉である。「才能がない」と自覚すれば、それをやること自体が無駄なことに思えてくる。

「得意」と「才能」は似ている言葉だけど、ニュアンスが違う。「得意」というのは「それをやるのに適している」というマイルドな意味合いになるし、「才能」は「それをやるために生まれてきた」くらいとても強い表現になる。

自分は選択した分野に関して「これをやる才能がある」と思いたいし、また同時に「才能がないのではないか」という不安も常にある。

いつも才能という崖の上を怖がりながら歩いている気がする。その崖は脆く、いつ崩れてしまうかわからない。強風に煽られて飛ばされそうにもなるから、早足で歩くことができない。

こんなことを若い頃からよく考えていた。「やりたいこと」が明確にあったとしても、それに対しての才能を持ちあわせていなければやる意味が何もないじゃないかと。

そんな時に一つの明確な回答がテレビの画面からもたらされた。1997年水曜夜10時から毎週一時間放送されていた「タモリの新・哲学大王!」という番組である。それほど人気が伸びなかったらしく2クールで終わってしまったが、当時は毎週観ていた。

その中のある週に、「才能」について考えるという回があった。「才能」とは何か。「才能」のあるなしはどうやって知ることができるか、そのことを色々な人の意見を元に考えるという趣旨である。

賢者として登場した武田鉄矢の言葉が妙に記憶に残っている。武田鉄矢は、「才能とは、一時間連続してできることを指す」と定義付けたのだ。

つまり、上手くやれるか下手なのかは才能を決める上で重要ではない。一時間やり続けられるくらいに没頭してしまうことがあれば、それは「才能のあることだ」と言えるという話である。

これは20代前半の自分としては、結構、救われた言葉だった。なぜならその時まで、才能とは周りから認められてはじめて認識するものだと思っていたからである。

しかしそうなると才能とは、世間から発見してもらうことが前提となる。発見されるということは、「才能はすでにそこにある」ということだ。つまり才能とは本来、世間に評価の軸があるのではなく、自分自身にあるものなのだ。

一時間という単位が適切かどうかはわからないが、武田鉄矢が言ったことは一つの真理ではあると思った。

才能があるかないか、その崖の上はそれから20年余り経った今でも怖くて不安な場所である。しかし評価されるか否かという世間へ軸を設けないようにすれば、少なくとも心折れてやめてしまうという選択は取らなくなる。

才能のあるなしを結論付ける理由は、いつも自分自身の中にしか存在し得ない。

これから上手くできなくて自信をなくすこともあると思うが、世間からの「才能がない」という残酷な言葉によって、自分の可能性を閉ざすことはないようにしたい。

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