情報を処理することが目的になっている

昨日、メールのCCという機能について書いたが、その続き。

CCは基本的に使わないのだけど、その代わり転送はよく使う。

例えば、クライアントからの指示を外部パートナーへ伝える際には、そのメールを転送して内容を伝えるというのをよくやっている。

その際にはただ転送ボタンを押してそのまま送るのではなく、文の頭に「◯◯の案件について指示が来たので転送します」という枕を必ずつけるようにしている。

そうしないと、いきなり自分宛てじゃない人のメールを受け取れば、それを理解するのにストレスが掛かるだろうと思うからだ。

これはCCでメールを貰うときにも思うことなのだが、自分宛てじゃないメールが届いた時、なんのメールかすぐに理解できないということはないだろうか。

自分に当てはめてみると、やはり僕宛てじゃないメールを突然受け取った時には、「なぜそれが自分のところへ来たのか」をすぐに理解できない。そしてそれが結構、小さなストレスになる。

もちろんメールの中身を読めばわかるのだけど、「ぱっと見た瞬間にすぐに理解できる」というレベルじゃないのが面倒である。

それがCCメールをもらうのが嫌な理由のひとつになっている。他の人の名前がついたメールを受け取った時に「なぜ自分のところに?」と思ってしまう、そのひと手間をものすごく無駄なことだと思ってしまうのだ。

しかし考えてみれば一日に何通ものCCを受け取る人は、このストレスを日に何度も受けるわけである。

CCが届いた時に「これはどうして自分のところへ届いたのか」と思うのも脳のメモリーを使うことだし、「この企画をもっとおもしろくさせるためにはどうしたらいいか」と考えるのも同じように脳を使う。

同じ使うのであれば情報処理に対しての比重を落とし、生産性の見込める分野へより多く投入したほうが断然よい。それは自明のことである。

ツールが発達して情報の量そのものが飛躍的に増えるに連れ、なぜかしら生産性よりも処理の仕方にウェイトがシフトしているように感じる。

情報は使ってナンボのはずがその量があまりにも多すぎて、処理することそのものが目的化してしまっている。そのことを膨大な量が行き交うCCというツールから見て取れる気がする。