服屋へ着ていく服がない問題

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服を買いに行きたいけど、服屋に着ていく服がない。これって割とよく聞く話である。自分も自意識過剰な十代・二十代の頃はこんな感じだった。どういうことかというと、「かっこよくなりたくておしゃれな服を買いに行きたい」ということは、「今の自分はおしゃれでもかっこよくもない」と認めているということなのだ。外見に対して自己否定に侵されているのだ。

そんな自己否定の状態なのに、店員もお客さんも洋服を素敵に着こなしている人がたくさんいる服屋などへ恥ずかしくて行けるはずがない。かっこ悪いことを自分で認めているのだから、その姿を審美眼を持った人の前へさらせる自信などあるはずがない。なのでいつまでも服を買いに行けないまま、自分が磨かれないまま、かっこ悪い自分という意識から逃れられないでいる。これは悲しいパラドックスである。

今でこそ僕は、他人と自分とを比べて相対的に劣等感へおちいることは少なくなった(人はみな違うのだ)。なんなら洋服はネット通販で揃えてしまえばいいとも思う。「服を買いに行きたいけど、服屋に着ていく服がない」という考えにハマってしまうことはない。しかしよく考えてみると、これは何も服を買う時だけ生じる精神状態ではないことに気づく。

例えば、毎日書いているブログはどうだろう。ブログを書きたくても書けない人はいるように思う。そしてその理由の一つには、「世間へ公開できるほどうまい文章が書けない」というものもあるのではないかと思う。文章を書くことに対して自己否定的になってしまっているのだ。

でもこれは明らかな間違いだ。文章というのは、書かないことには絶対にうまくならない。逆に言えば、書いた文字の量だけ必ずうまくなる。これは真実である。なので「うまくないから書けない」は、「洋服屋に着ていく服がない」と同じ心理的構造にハマっているのだ。

なんでこんなことを書いたかというと、僕が一番うまくなりたいと心のなかで思っているのは、何を隠そう写真なのだ。写真がうまくなりたい。すごい写真を撮りたい。「すごいね、素晴らしいね!」と褒められるような写真を撮りたい。

だったら撮ればいいやん。しかし今の自分は、うまい写真を撮っているように思えない。自信がない。「服屋へ着ていく服がない」という精神状態なのだ。だからうまくなりたいくせにプライベートで写真をそれほど撮らない。写真が下手な自分を見たくないからだ。写真が下手なことを知られたくないから、公開もしない。これではいつまでたっても「絶対に」うまくなどなりはしない。撮らないことには始まらないのだ。

ということで、これから写真を必ずアップすることを自分へ課すことにしました。一年後、「写真を見るためにこのブログを訪問してくれる」そんな人が一人でもいるように。


金沢在住のフリーランス・ライター。2014年より海外への一人旅をはじめる。これまでに訪れた国は16カ国。旅に使っているカメラは、2016年秋に亡くなった写真家の伯父・富岡省三氏のHasselblad 500C/M。