映画「君の名は。」と村上春樹さんの小説の共通点

※この文章には、映画「君の名は。」のネタバレが含まれています。

先日ベトナムへ行った時に、行きの飛行機で「君の名は。」を観ました。前の座席の背もたれに液晶画面がついていて、色々な映画を観ることができたのです。その中に「君の名は。」がありました。一度、劇場へ足を運んでいるのですが、再び観てみることにしました。

劇場で観ているときもそうでしたが、物語の中盤から涙が止まらなくなってきます。隣の席の人に変な風に思われないよう、さりげなく涙を拭くのに苦労しました。

どうしてこんなにこの映画は泣けてくるのか。究極のすれ違いを描いているからだと思います。なんせコミュニケーションを取っているはずの二人は、実は同じ時空に存在していないのですから。しかもその存在感がなくなると、名前を思い出せなくなります。

名前を思い出せなくて、もちろん顔もわからない。ただなんとなく、印象的な出来事があったという感触だけが心に残っている。それで再会できないまま終わってしまうとしたら、こんなに悲しいことはない。そう想像してしまい、泣けてきてしまうのです。

この映画を観ながら、「どこかでこういう話を読んだ」と思い至りました。それは村上春樹さんの短編小説集「カンガルー日和」に入っている、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という長いタイトルの短編でした。

100パーセントの女の子というのは、この世で自分に一番ぴったり合った女の子という意味です。主人公は少年期に100パーセントの女の子と奇跡的に出会います。二人は感動していつまでも話し続けます。しかし疑問が頭をかすめます。「この人は本当に100パーセントの人なのだろうか」と。

そこで少年は提案します。「一度、ここでお別れしてみよう」と。もし本当に僕たちが100パーセントならば、また必ず巡り合うはずだ。そうして二人は別れますが、少年も少女も記憶喪失になってしまい、相手のことをすっかり忘れてしまいます。そして時は10年以上流れ、もう30代になったかつての少年は原宿の裏通りを歩いている時、100パーセントの女の子とすれ違います。

かすかな記憶のヒダからお互いのことを100パーセントと認識しますが、そのまま声を掛け合わないまま通り過ぎてしまう。街へ消えてしまい、もう二度と会うことはないでしょう。そんな悲しい物語です。

このストーリーを読んで、「君の名は。」を観た人は「確かに似ている」と思うのではないでしょうか。すれ違いは恋愛モノの定番の仕掛けです。「君の名は。」は、そこにタイムパラドックスの要素を入れ、主人公たちを活動的にしたような物語です。

運命の人に再開するため、かたや慣れない東京の街を歩き回り、かたや雨の山道をのぼるのですから。村上春樹さんの小説の登場人物であれば、家でスパゲッティを作り、猫と遊び、本を読んで一日が終わりそうです…。

ともかくひょんなことで見返すことになった「君の名は。」。すれ違いの切なさも、エンディングで再会できるほっこりさも、一度目と同様楽しめました。また飛行機で観る機会があれば、泣きながら観賞したいと思います。