小説を読む行為と旅することは本質的に似ている

小説には「読むと道を踏み外すもの」がいくつかあります。例えば「ライ麦畑でつかまえて」。サリンジャーの有名な小説です。

些細な諍いで学校の寮を出ることになったホールデンが、そのまま街をふらふら彷徨う物語。筋書きだけ見ると大した話ではないですが、連綿とした一人称の口語体が一人の青年の独白のようなんですね。

自分の内面世界に閉じこもり、外界を敵対視する。唯一、彼の世界へ入るのを許されるのは、妹のフィービーだけ。

思春期特有の荒々しい感情がむき出しで、若いときに読むと見事に道を踏み外します。

海外小説を取り憑かれたように読んでいた

ぼくは10代、20代のころ、取り憑かれたように色々な小説を読んでいました。海外小説も有名どころをいくつか読みました。「ライ麦畑」のように道を踏み外す多感な物語が印象に残っています。

カポーティの「遠い声遠い部屋」、ヘッセの「車輪の下」、カミュの「異邦人」、マンの「魔の山」…。

これらはもう10年以上、ページをめくっていません。今読むとどういった感情になるんでしょうか。若いころのように感情を強く揺さぶられるのでしょうか。それとも、客観的に冷めた思考で読んでしまうのか。

「ライ麦畑」にはまると、現実の道を踏み外す

どうしてこれらを思い出したかと言うと、サリンジャーを描いた映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」の存在を知ったからでした。

多くの地域で封切られていて、金沢の公開は遅れること今月20日から。その予告編を見たときに、学生時代に夢中になって読んだサリンジャーの小説をありありと思い出しました。

とても癖のある小説なので、中学生のころ読んだときは受け入れられませんでした。大学生になって読み返し、どっぷりとその世界にはまりました。「ライ麦畑」にはまってしまうと、なかなか規定ルートで人生を歩もうとは思えません。見事に道を踏み外しましたね…。

小説と旅は本質的に似ている

小説を読む行為は、ひとときのあいだ別の場所へ旅立つのと同じです。読んでいるあいだだけは、現実世界から離れることができる。別の土地へ一人で旅することは、小説を読む行為と似ているんです。

旅することと小説を読むこと。このふたつは本質的に同じです。

ということで、次の旅ではこれらの小説を旅先で読んでみます。おそらく日本で読む以上に意識を持っていかれるでしょうね。そのまま戻ってこなくなる、なんてことがないようにしなくては…。

Scroll to top