「語りおろし」は、カバーに明記すべきでは?

何気なく読み始めた、とある小説家のエッセイ。
これがなかなかおもしろくて、最後まで休まずに読み切ってしまいました。

著者は純文学小説を書いている方ですが、エッセイの文体は語り掛けるような親しみやすい雰囲気。
内容よりむしろ、その文体に好感を持ってあとがきまで読み進めたのです。

するとそのあとがきに、協力してくれたライターへの謝辞が書いてありました。

編集者と対話をし、それをもとにライターが原稿を作ってくれた云々。
つまりこのエッセイは、書き下ろしではなかったのです。
著者が話した内容を、プロのライターが文章としてまとめたものでした。

どうりで読みやすいと思った。

手品のタネが、最後の最後で明かされました。
騙された思いになるのは、ぼくだけでしょうか。

書籍にゴーストライターを立てるのは、なんら珍しいことではありません。
例えば世に出ているビジネス書の多くは、経営者や専門家へのインタビューをもとに、ライターがまとめています。

執筆が本業でない会社経営者が、10万字もの原稿を破綻なく仕上げることは難しい。
できたとしても、何年掛かるかわかりません。

時流に左右されるビジネス書は、スピードが勝負です。
何年後になるかわからない経営者自らの執筆より、ゴーストライターの力を借りて本を作るのは経営者にとっても、編集者にとっても、そして読者にとっても合理的です。

ただ小説家の場合は、話が別。
小説家とは、文筆を生業としているのです。
文章を書くことが、その仕事の中心。

著作名に小説家の名前が付けられた小説は、誰も本人が書いたものと疑いません。
むしろ小説にゴーストライターを立てていれば、大問題になります。
なぜなら、その方の創作物として読者は手に取るのだから。

でも「小説はダメだけど、エッセイならよい」となってしまう理屈がぼくにはわからない。
その小説家が好きな読者であれば、同じようにエッセイもまた期待するはず。
それは内容だけでなく、文体もまた好きだからです。

今回読んだエッセイの小説家について、ぼくは好きでも嫌いでもありませんでした。
実は、小説は一冊も読んだことがありません。
気になったテーマを選んでいたから、手にとって見ただけ。

でももし自分の好きな小説家がエッセイを出し、最後まで読んだ末にゴーストライターだとわかったなら。
その小説家に対し、かなり懐疑的な感情を抱くでしょう。

時間がないなど、ゴーストライターを立てざるを得ない理由があるのかもしれない。
ならせめて、本のカバーに明記したほうがよい。
そして前書きで、そのことを断ってから内容に入ったほうがよいです。

その小説家のことが好きだとしても、文体が彼(彼女)のものでなければ、そもそも読みたいと思わないひとがいるでしょう。

ファンである読者があとがきまで読んで騙された気持ちになれば、いくら良いことが書いてあったとしても嘘に感じてしまいます。
時間を無駄にしたと思うかもしれない。

カバーなり前書きなりで断っておけば、そんな不幸な出来事を生まなくて済みます。

それにしても、「小説家のエッセイにライターを立てる」その事実に驚きました。
今どきは、そうなのか。

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