日米開戦の決断の過程とは。太平洋戦争へのプロセスは日本の組織の問題点そのもの

公開日 2021-06-07 最終更新日 2021-06-07

会社に勤めている方は、以下のようなことを普段、感じていませんか。
「どうして上司は、合理的な判断をしないのだろう」
「どうして物事を決めるのに、多くの時間がかかるのだろう」
優秀な人ほど属している組織に対し、失望する機会が多いかもしれません。

しかしそれは、あなたの会社だけの問題ではありません。
日本の組織が抱えている、慢性的な問題です。

森山優さん著『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』は、日本がアメリカとの戦争を決断するまでの過程が、詳しく記載されています。
この本では日本の決断力のなさや、内輪の利害だけを考える利己的な傾向を浮き彫りにしています。
太平洋戦争から数十年経った今の日本にも、通じている部分が多々あると思いました。

そこでこの記事では、『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』をレビューします。

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日米開戦はどのような過程で決断されたのか。太平洋戦争へのプロセスは日本の組織の問題点そのもの

日本人のほとんどは、日本がアメリカと戦争し、敗戦したことを知っています。
しかし、「どういった過程で、日本はアメリカとの戦争を決断したか」そのプロセスをきちんと把握しているひとは少ないかもしれません。

高校の歴史の授業では、以下のように説明されます。

東南アジア侵略へ意欲を持つ日本を、アメリカは警戒した。
そこで日本の国力を弱めるため、アメリカは日本への石油輸出をストップ。
日本はアメリカと石油輸入再開を交渉したが、最終的に決裂し、開戦へ追い込まれた。

もちろんそれは、認識されている歴史的事実として正しいです。
さらに開戦へのプロセスの解像度を高くすると、色々と驚く部分が出てきます。

アメリカに勝てるとは、誰も思っていなかった

そもそもの話、当時の日本人の政治家や軍人で、「アメリカに勝てる」と思っていた人はいませんでした。
当時の日本とアメリカでは、持っている資源や軍事力に差がありすぎます。

1941年8月1日、アメリカからの石油輸入が停止され、日本の石油のストックは2年間で切れると算段されました。
つまり、もしアメリカと戦争が始まったとしても、3年以上に長引けば、石油の尽きる日本は必敗します。
こんな勝率の低い状況にも関わらず、日本は最終的に戦争という最悪の決断をしました。

日本の組織の3つの問題点

戦争の結果を知っているぼくたちにすれば、当時の政治家が取るべき選択は、どう考えても戦争ではありません。
むしろ、なんとしてもアメリカとの戦争は回避し、なおかつ石油確保の手立てを探る。
それが、国を存続させるベターな戦略でしょう。

しかし日本は、その道を選びませんでした。
その理由を紐解くと、日本の組織の3つの問題点が浮き彫りになります。

  • 縦割りでまとまりのない組織
  • リーダーシップ不在
  • 問題の先送り

これらは現在の日本の組織にも、当てはまるのではないでしょうか。

日米開戦の最初のきっかけは、三国同盟

再三、書いているように、日米開戦の直接的な理由は、アメリカによる石油の輸出停止です。
ではなぜアメリカは、日本に対しそこまでの措置をしたのでしょう。
その遠因は、三国同盟にありました。

日本は、1937年に日独伊三国防共協定、1940年に三国同盟と、ドイツ・イタリアとの関係を深めました。
第二次世界大戦は、1939年9月にドイツのポーランド侵攻で始まります。
好戦的なドイツと日本が同盟を結んだことで、「日本はイギリス・オランダが支配している東南アジアを、侵略するのではないか」そんな懸念をアメリカは持ちます。

石油の輸出停止は、アジア侵略に意欲を見せる、日本の国力を弱めるための措置でした。
つまり突き詰めると日米開戦の根本的な原因は、ドイツ・イタリアと手を結んだ三国同盟にあります。

日本とドイツが同盟を結んだ理由

では三国同盟は、どのような経緯で結ばれたのでしょうか。
この同盟は、ドイツから日本に打診されました。

すでにヨーロッパの隣国を侵略していたドイツは、この戦争にアメリカには介入してほしくないと思っていました。
戦力の充実するアメリカが連合国軍に加入すれば、ドイツの戦況はかなり厳しくなります。

そこでアメリカの目をヨーロッパ以外へ向けさせるため、日本と軍事同盟を結びました。
三国同盟には、「同盟国が攻撃を受けたら、助けにいく」といった条項も含まれています。
アメリカに対し、「ヨーロッパの戦争に加担したら、西海岸に日本が攻め込んできますよ」と牽制したのです。

一方、日本は三国同盟を盾に、中国・東南アジアへの進出にアメリカが介入しないようしたかったのです。

三国同盟でアメリカは日本への警戒感を増す

しかし日本の目論見は、外れました。
アメリカは日本の動きを警戒し、石油の輸出停止へ踏み切ります。
「日本へ石油を与えれば、同盟国のドイツへ送るかもしれない」そんな懸念もアメリカにはあったでしょう。
それは世界情勢を客観的に見れば、当然の考えです。
日本は、最初の目測を誤ってしまいました。

アメリカの石油停止で取った日本の方針

日本はアメリカの石油輸出停止により、今後の方針を考えざるを得なくなります。
選択肢は、3つありました。

  1. 石油の輸入再開のため、アメリカと交渉する
  2. 同盟国ドイツがヨーロッパの覇者になるなど、世界情勢が日本に有利になるまで耐え忍ぶ(臥薪嘗胆)
  3. アメリカと開戦し、東南アジアの石油資源を確保する

この3つのうち、日本の取った行動はどれだったでしょう。

交渉が決裂すれば、開戦

日本が取った基本戦略は、1と3の折衷案でした。
アメリカと交渉し石油輸入再開へ努力はするが、それがかなわなければ日米開戦するしかしない、と考えたのです。

なぜ2の臥薪嘗胆を、選択肢として考えなかったのか。
2年で石油の尽きる日本は、資源がなくなった瞬間、アメリカが攻め込んでくると恐れていました。
そのため「状況悪化の前に、先手を打とう」といった気運がありました。

また、状況が変わるまでじっと耐え続けるには、胆力が必要です。
その胆力が当時の政治家にはなく、「ともかく何かしら手を打って、現状を打開したい」と焦っていたのです。

交渉決裂し、開戦へ

最終的に交渉は決裂し、日本はアメリカとの戦争を選択します。
しかし根本的な考えとして、勝ち目のない戦争をするのは間違っています。

なぜ日本は、開戦といういわば最悪の選択をしたのでしょうか。
そこには当時の日本の内閣の構造に、問題がありました。

当時の日本の内閣が持つ、構造的な問題

いまの日本の内閣は、トップに内閣総理大臣がいます。
内閣総理大臣は各省を束ねる行政のトップであり、大臣が暴走したり不手際があったりしたときには、解任する権限があります。

一方、戦前の日本の行政のトップは、天皇でした。
天皇の下に、内閣総理大臣や各大臣、陸海軍が並列に配置されています。
つまり今の日本のように、首相は各省のトップではないのです。
大臣が暴走し首相の言うことを聞かなくても、首相には大臣を辞めさせる権限がありません。
もし閣内で対立が起これば、最悪の場合、内閣総辞職するしかありませんでした。

リーダー不在の組織

ではトップである昭和天皇は、リーダーシップを発揮したのでしょうか。
そんなことは、ありません。
そもそも天皇には「天皇無答責」といって、決断に対する責任がありませんした。

責任が伴わなければ、リーダーとは呼べません。
天皇はリーダーと言うより、影響力のあるご意見番といった立ち位置。
内閣から上がってくる国の方針に対し、「それは現実的に可能なのか」と質問はするが、最終的な判断は各閣僚に任せていました。

つまり、内閣総理大臣は他の大臣と横並びで権力がなく、組織トップの天皇は責任を取る必要がない。
当時の日本の内閣には、リーダーシップを発揮する機関または人物がおらず、それぞれの組織が、自分たちの利益を求めてバラバラに動いていたのです。

国家方針は、「国策」に定められた

このような組織構成で、一体どのように国家の方針を定めていたのでしょう。
明治政府を築いた元老たちは、すでにいなくなっています。

そこで特定の人物がリーダーシップを取るのではなく、「国策」と呼ばれる文書によって国家の方針は定められました。

調整に調整を重ねた、玉虫色の文書

国策とは、国の今後の方針を定めた文書を指します。
この国策づくりは、毎回難航を極めました。
国策は陸軍・海軍が中心となって作成しましたが、そもそも陸海軍それぞれの内部すら統制が取れていません。
軍内部の各々の部署が、主導権争いをする始末。

陸海軍のどの部署も自分たちの利害で物事を判断し、国策へ要望を出します。
それをさらに陸海軍の双方がすり合わせし、なんとかどの部署も合意できるような文書へ官僚が仕上げていくのです。

こうして官僚が調整に調整を重ねて、書いた文書がどのようなものになるか、結果は火を見るより明らかです。
各部署の顔を立てるため、具体的な行動や期限の表記は避けられるのが常でした。
どうとでも解釈できる、玉虫色の文書を出すほかなかったのです。

機能不全の当時の内閣

作成に多大な時間を労すため、状況が変わるたびに国策は何度も修正されました。
時間を掛けて国策ができあがったとしても、具体性に欠ける表現のため何をすればいいか誰にもわからない。
そんな国策だから、効力もありません。

リーダーとなる機関も人物もおらず、国策にも権威がない。
当時の日本の内閣は、機能不全の状態に陥っていました。

アメリカとの交渉に挑む、第三次近衛内閣

さて、ここから時計の針を進めます。
日本がドイツ・イタリアと三国同盟を結んで以来、アメリカとの関係は悪化していました。
日本にとってのアメリカは、太平洋を間に挟んだ大国です。
日本としては、良好な関係を保っておくに越したことはありません。

1941年7月18日に発足した第三次近衛内閣は、アメリカとの関係改善へ意欲を見せました。
外相レベルではなく、ルーズベルト大統領との日米首脳会談すら画策していたのです。
ところが、内閣が発足した直後の7月下旬、日本は南部フランス領インドシナを占領します(南部仏印進駐)。
日本としては、南部に植民地を持つイギリス・オランダへ睨みを効かせたかったのです。

この南部仏印進駐は、アメリカに強い警戒感を与えました。
「ついに日本は、アジア南方へ侵略を開始した」とアメリカは危惧し、数日後の8月1日に即座に石油輸出をストップしたのです。

主力の海軍は、開戦反対だった

資源のない日本にとって、石油を輸入できないのは死活問題。
アメリカの石油輸出停止を契機に、日本の陸軍の一部から対米開戦論が噴出しました。
ストックしている石油がなくなる前に、蘭印の油田地帯を制圧してしまおう、そんな意見が出始めたのです。

しかし陸軍がいくら対米開戦を望んでも、アメリカと戦争するとなれば、その主力は海軍です。
海軍は当然ながら、アメリカと戦争して勝てるとは思っていません。
誰も、勝てない戦争の矢面には立ちたくありません。
そのため日本の海軍は、開戦反対の立場を取り続けました。

状況的に、開戦へとニュアンスを変えてしまう

海軍が反対の立場を貫けば、太平洋戦争は物理的に起こり得なかったでしょう。
しかし海軍は「万が一」を考えて、戦争の準備はしておきたいと考えました。
事態は、どう転ぶかわかりません。
アメリカとの緊張状態から、いつ何時、戦争が始まるかわからないと感じたのです。

戦争の準備には、予算が必要です。
戦争は反対だが、万が一の準備として予算はつけてほしい。
そこで海軍は、「10月中旬までに日米交渉がまとまらなければ、『開戦も辞せざる決意』」という文書を内閣へ提出しました。

それまで開戦反対の立場を取り続けていた海軍は、状況的にしょうがなく、自分たちの意見のニュアンスを変えてしまったのです。

最後まで続いた、陸軍の抵抗

状況が悪くなる中で、それでも第三次近衛内閣は外相を中心とし、日米交渉の下準備を進めました。
アメリカの石油輸出停止のきっかけは、日本の南部仏印進駐なのは明白です。
そのため交渉のカードとして、日本軍の南部仏印進駐からの撤退もしくは後退、兵力低減などを提示しなければなりません。

しかしアジア侵略に多大な戦力を投入した陸軍は、アジアからの後退案に断固として反対しました。
結局、妥協案の折り合いが陸軍とつかず、第三次近衛内閣は10月18日に総辞職します。

陸軍トップの東条英機内閣が誕生

第三次近衛内閣の次の首相に任命されたのは、陸軍トップの東条英機でした。
それまでの内閣は、ともかく行政がうまくいきませんした。
というのも国の方針に対し、必ず陸軍から横槍が入り閣議が紛糾したからです。

東条英機が内閣総理大臣に任命された理由のひとつは、「いっそ陸軍トップを首相にすれば、内閣はまとまるのではないか」そんな空気があったからです。
その予想は当たり、日本の内閣は、それまでにないほどのまとまりを見せます。

東条英機首相の率いる日本陸軍の中堅層は、アメリカとの開戦を支持しています。
東条英機が内閣トップになったことで、ますます開戦が濃厚になりました。
しかし日本の外相は、ギリギリまでアメリカとの交渉に望みをつないでいました。

日米交渉に妥協しない日本陸軍

アメリカとの交渉において、最後まで外相と陸軍とで妥協点を見出すのに苦労したのが、中国と南部仏印からの撤退です。
この二つを条件に盛り込まないと、アメリカは絶対に石油輸出を再開しません。
それは、内閣の誰もがわかっています。

しかし中国と南部仏印からの撤退について、陸軍はどこまでも妥協しませんでした。
なぜ陸軍は、そこまでアジア進出にこだわったのでしょうか。

アジア進出を損切りできなかった

それまで陸軍は中国や東南アジア進出へ、多大な予算を掛けていました。
しかし労力に対しての成果は、ほとんどありません。
アジアの国を植民地化して、豊富な資源を得るような実利を得られていなかったのです。

陸軍は自分たちのメンツに、最後までこだわりました。
多大な時間と資金を掛けたアジア進出を、ここで諦めるわけにいかなかった。
陸軍は中国・東南アジアへの侵略と、日米開戦での国家の存亡とを天秤にかけ、最後まで自分たちの利害を優先したのでした。

アメリカとの交渉決裂

最終的に、日本がアメリカとの交渉で提示したギリギリの妥協案は、以下のような内容でした。

  • 日本は、仏印(フランス領インドシナ)以外の東南アジアには進出しない
  • アメリカは、日本の中国進出を邪魔してはいけない
  • 必要に応じて、日本は南部仏印進駐を北部仏印へ移動させる
  • 日中関係もしくは太平洋に平和が訪れたら、日本軍は仏印から撤退する

これに対しアメリカのコーデル・ハル国務長官から、日本へハル・ノートが提出されました。
高校の教科書に登場する、有名なハル・ノートです。

その内容は、以下のように妥協を一切認めない原則的なものでした。

  • 中国・インドシナから日本軍は撤収せよ
  • 蒋介石政府以外の中国政府は認めない(日本が立国した満州国は認めない)
  • 太平洋和平と三国同盟は矛盾している(だから、三国同盟を破棄せよ)

当然ながら、この条件を日本陸軍と内閣が飲めるはずありませんでした。

ハル・ノートにより、開戦が決定する

ハル・ノートの内容に、日本は驚きました。
一切の妥協を認めない原則的な条件を提示され、開戦への決意が固まってしまいました。

この時点で当時の日本の内閣が考えていた、アメリカに勝てる条件は以下でした。

  • 短期決戦
  • ドイツがヨーロッパの各国を撃破し有利に立つなど、世界情勢が日本に味方する

つまり、他力本願・神風頼みです。

こうして何千万人の犠牲者を出した太平洋戦争は、1941年12月7日、誰もリーダーシップを取らないまま、成り行きのように始まってしまったのです。
太平洋戦争は短期決戦どころか1945年9月まで3年9カ月にも及び、日本は2発の原爆投下を含め国土に甚大な損害を受けました。

まとめ

日本には、戦争を回避するチャンスがいくらでもありました。
そもそも海軍が最後まで反対すれば戦争にはならなかったし、早めに南部仏印進駐から撤退すれば、アメリカの石油輸出が再開されたかもしれません。

中国や南部仏印から撤退せず、石油がストップされても、何もせずこらえる臥薪嘗胆の選択もありました。
何もせずこらえるのはつらいですが、まるで勝ち目のない戦争を仕掛けるより、よほどましです。
アメリカと戦争すれば、国が滅びる可能性すらあります。
そんな多大なリスクの選択は、国民の安全を第一に考える政治家としてあってはなりません。

しかし当時の日本の内閣は、日米開戦という最悪の決断をしました。
その背景には、以下のような意思決定の特徴がありました。

  • 長期的・俯瞰的な視点を持たない
  • 目の前のリスク回避に奔走する
  • それぞれの部署が、国ではなく、自分たちの利害を優先して考える

当時の日本の内閣と、現在の組織の類似点

歴史を知っているぼくたちは、当時の内閣の判断を馬鹿げたものだと思えます。
しかし果たして実際にぼくたちがその現場にいて、戦争回避の判断をできたでしょうか。

当時の日本の内閣のような状況は、今でも日本のあらゆる組織で見られているかもしれません。
何も決まらない、長時間の会議。
責任の所在がはっきりせず、自分たちの利害を優先する各部署。
リーダーシップの不在。

敗戦の経験は、日本にとって国のあり方そのものをかえる、とても大きなものでした。
しかしそれだけの経験をしたあとでも、日本の組織は根本的に変わっていないように思えます。

組織のあり方を考えられる、とても良い本

以上、長くなりましたが、『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』のブックレビューでした。
この本は、歴史書としてだけでなく、現代の組織のあり方を考える上でも、たくさんの学びがありました。

人名が多く漢字ばかりで、正直、とっつきにくい本ではあります。
しかし膨大な資料をもとに、開戦へのプロセスをとてもわかりやすく記してあります。
この記事を読んでさらに詳しく知りたくなったなら、本を手にとってみてください。

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